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長寿企業であるための伝統の継承と革新の継続。
一般的に老舗と呼ばれる企業は、伝統を守るあまり発展性がないと思われがちである。しかし現実の老舗企業は、長きにわたって時代の激動を生き抜いてきただけに、伝統をしっかり継承しつつも、したたかな革新を続けることによって生き延びてきた。伝統の継承と革新の間の微妙なバランスこそが、長寿の秘訣といえるのかもしれない。
今回は100年を超える長寿企業の代表に、先代から受け継いだバトンを後代につなぐための、老舗の「伝統」と「革新」についてお話しいただいた。自社の強みを支えるDNA、そして「変えないもの」と「変えたもの」、さらに将来を見据えて「これから変えていくもの」。三社三様の姿勢と方法論、永続の秘訣には、変化し続けるビジネスの世界で、これからのものづくり企業が生き続けるためのヒントが散りばめられていた。
先代から受け継いだバトンを、後代に伝える努力。
―まずは創業からの歴史や沿革についてお話いただけますか。
中川 曽祖父が大正6年(1917)に創業し、今年100周年を迎えました。私で4代目です。最初は町の鍛冶屋のような存在で、戦前は軍需品の製造も手がけていたようです。戦後は焼け野原にバラック小屋を建て再出発しました。現在は汎用旋盤による丸物加工、ニッチな業界のステンレスや難削の丸物加工が中心です。
原 当社は大正元年(1912)に創業、今年で105年目です。僕は昨年11月に社長に就任したばかりです。亜鉛を溶かすための坩堝(るつぼ)製造からはじまり、坩堝製造、ガラス溶融業務、斎場に使われているバーナータイル等の特殊な耐火煉瓦製造が事業の三本柱です。
北村 明治18年(1885)に渡辺貞助と西村徳兵衛が、耐火煉瓦とガラス用坩堝の製造をはじめ、両者の名にちなんで貞徳舎と命名されました。明治24年(1891)に私の祖父に代替わりして、今年で126年目で私も4代目です。現在は特殊な異形煉瓦や、約30年前からはセラミックを使ったヒーターの分野が中心となっています。
―代々引き継がれた、経営のための「教え」はありますか?
北村 理念は3つあります。一つはコンプライアンスを意識して仕事をする。次にスキルアップをして、技術で食べていける会社であること。最後がささやかでも社会に役立つこと。それと若い人の自主性を尊重する社風です。社屋は古い木造ですが、最近はこういう工房で働きたいという若い人が増えてきました。
原 この建物は創業時のものですか?
北村 いつ建ったのか分からないんですよ。私は74歳ですが、生まれる前からありました。空襲の戦火も逃れて。
中川 それは羨ましい。うちは戦争で焼失し、創業時の書類が一部しか残っておらず、想像でしか創業者の想いが分からない。それでも「鉄工所は大きくするな」という家訓は守っています。
原 創業オーナーは「お客様第一」と言っていました。過去に火事で窯がなくなったときには、商品を岐阜まで運び、窯を借りてまで坩堝を焼成して納品をしたと聞いています。そういう信用はなかなか崩れるものじゃない。それと現在、廃業した同業の社長さんが3人働いているのですが、それもつながりを大切にする創業オーナーの人柄ですね。
―理念や教えとともに技術の伝承も大切だと思います。これはどのようにされているのですか。
原 坩堝はほぼ手づくりです。北村さんが言われるように、手づくりで物を生み出すことに憧れる若い人が増えていて、うちで今一番若い職人は26歳です。できるだけ早く技術を習得するために、各部署でミーティングし、ベテラン職人が手取り足取り教えています。彼らによく言うんです。「君たち坩堝職人はプロ野球選手より少ないんだから、自信とプライドを持って仕事をして欲しい」と。
長く続けていると必ずある浮き沈みと、どう向き合うか。
―これまで幾多の転機があったと思いますが、自社の
転機と、それによる社内の変化を教えて下さい。
北村 転機は4回ありました。最初はオイルショック、次に煉瓦の発注が落ち込んだ時。このときは工業用電熱ヒーター分野に進出し、3年で主力製品になるまでに成長しました。その後のリーマンショックは強烈で、売上が約4割まで落ちました。そして4つめが新しい製品づくりです。
―それが現在の社風にも大きく影響していると。
北村 そうですね。ガラス会社と一緒に開発したヒーターを、自動車のガラスの熱処理に使ってもらえて。そこからフラットパネルの熱処理へと広がっています。きっかけは展示会です。そこから4年に一度の展示会に向けて、新しい知識と技術を集結させ、社内コンペもおこなっています。
中川 私が会社を引き継いだ年にリーマンショックが起こり、暗中模索のスタートでした。そこで注力したのが技術の底上げと社員教育。ここ10年で厳しい体質の会社に変わったと思います。また100周年を迎えるにあたり、社内ミュージアムの整備や、BtoC事業への挑戦、社歌の制作などの社内改革を推し進めました。
―最近ものづくり企業でも、社歌はブームですね。
中川 「中川鉄工のうた」「中川鉄工スピリッツ~次の100年への道しるべ~」の2曲を、シンガーソングライターの原田博行さんにつくっていただきました。私たちの仕事は若手の技術者がいないと次の時代に進めない。彼らに強い心を持ってもらうために社歌をつくって、社員教育につなげています。
原 2008年9月入社なので、僕もリーマンショックとともにスタートしました。すぐ影響は出なかったのですが、じわじわ売上が下がってきて。だから最初の仕事は社員一人ひとりに「週休4日」を告げること。ありがたいことに翌年2月には、大手ガラスメーカーからまとまった仕事が入るようになりましたが。
北村 そんなものですね。不思議な話ですが、転換期には助けてくれる人が出てくる。顧客、協力会社、社員に近所の人まで。
―そのような縁は、どうやってつかめばいいのでしょう。
北村 それは運ですね(笑)。その運をつかめるかどうかが大事。それは日頃の努力や、理念に基づいた姿勢がものをいいます。
中川 たしかに長く続けていると必ず浮き沈みがある。ある会社からの仕事がゼロになったときに、自分たちを引っ張り上げてくれる別の会社と出会えた。それは社員が自主的に残業して、最高の技術をPRできる素晴らしい製品をつくってくれて、展示会で発表したからこそ、先ほどの出会いがあった。今振り返ると、社員の意識が変わることで運を引き寄せられたのかなと思います。
大胆な革新こそ、長寿企業に必要なもの。
―北村さんの会社はメインとなる商品が大きく変わり、原さんの会社では家庭用タンドール窯、中川さんもワイングラスをつくられてBtoCにも着手していますよね。
北村 そうですね。それによって社内の体質も変化しました。今までは下請け体質で、私たちの技術の売り方が下手だった。そこは毅然たる態度で、中小企業の技術を「買っていただく」という方向に変えていきました。
原 タンドール窯については、15年ほど前に東京の業務用タンドール窯メーカーから相談を受けてスタートしました。最初は坩堝と同じ土でやっていましたが合わないので、専用の土を開発・改良しています。その後、家庭用の小型も製造販売するようになりました。売れるというより、面白いという動機ではじめたものですし、社員のモチベーションアップになるような事業として展開に力を入れています。
中川 戦前の1935年頃には、ねじ切り装置「中川式英米螺旋装置機」を自社開発しており、長い歴史の中ではメーカーだった時期もあったんです。本業をしっかりしながら、第二創業的な部分も必要と考え、自社技術を最大限活かして提供できるものとしてワイングラスを開発しました。100周年を機に、再びメーカーになれたという、自己満足も多分にありますが。
―BtoCに関してプロモーションもされていますか。
原 僕は義理の父が当社の社長に就任して、その後を継ぐ形で社長になりましたが、以前はIT系のデザイン会社で働いていました。製造業に関して素人の僕ができることは、ネットを使った発信で、それを見て新聞やテレビに取材に来ていただいて。
中川 今日着ているポロシャツはユニフォームですか?
原 そうです。入社してすぐユニフォームを変えました。若い人にカッコいいと思わせるところが必要かなと思って。背中に筆文字で「職人魂」と入れていて。
顧客のニーズ、時代の価値観に敏感に対応する。
―自社がなぜ、長く続けることができたかとお考えですか。
北村 世の中の変化は早く、特に工業用品は10年サイクル。常に先を読んで、顧客が求めるニーズを把握し、それに基づいた製品を提供する。工業製品は不要となれば需要はゼロになるし、逆に没になった提案が復活するともある。だからものづくり企業は、取捨選択と決断力が重要です。不採算部門は切り捨て、技術と効率UPという方向に持っていき、次の世代につないでいく。さらにそこには、若い力と自由な発想がないと続かない。
中川 「一度つながった顧客には、とことん義理人情は果たせ」というのが先代からの教えでしたが、当社ではリーマンショックの頃と今とでは顧客が約7割変わりました。なぜかというと先方も価値観が変わってくるからです。そういった時代の価値観に敏感に対応して、多くの会社とビジネスができるWin-Winの関係を築き、信頼関係を持てるかに尽きます。
原 本業に向き合いながら、自社でできる事業の柱を何本持つかが重要。うちは前社長(現会長)が就任してからの10年で、2つも新しい柱を生み出しています。前社長はガラス会社にいたアイデアマンで、スーパーカミオカンデ内部のガラスバルブの開発にも関わった技術者なので、これを一つの柱に。そして耐火煉瓦、それもバーナータイルというニッチなところを攻めて。
一本が倒れてもこっちとやってきたから、続いているのだと思います。
―社会のニーズ、変化する市場や顧客に目を向け、しなやかに変革して企業として永続してきたということですね。最後に今後の展開についてお聞かせください。
中川 技術者の復権を目指したいですね。社員たちを見ていると、ものすごく頑張っているんですよ。彼らに社会的な評価を与えていただき、結果としていい生活をさせてあげたい。同時に当社では「Made in OSAKA,JAPAN」にこだわっているので、日本でつくるものの付加価値をもっと上げていきたいですね。
原 僕はこの会社に入って、まず時間軸の単位が違うので驚きました。ITの世界で「このあいだ」といえば一週間、長くて半月。でも今いる世界では「半年」を指す。ひとつの製品をつくり上げるのに3~4ヶ月かかるからです。うちの会社にできるのは、時間をかけて一人の職人が手づくりで一つの製品をつ
くること。これを後世につないでいきたい。
北村 お二人の意見にまったく同感です。私たちがつくっているのは、大量生産できるものではない。だから製品に付加価値を持たせないと、社員にリターンできない。基本的な理念だけはそのままに、今後も変えられることはどんどん変えていく。それがなによりも大切です。